マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

教えるという行為

 教えるという行為には、尊大な態度で望まなければなりません。

 尊大というのは、

 ――無礼に振る舞う。

 とか、

 ――エラそうにいう。

 とかいうことではありません。見かけ上は、

 ――謙虚に礼儀正しく――

 に越したことはありません。

 教えるという行為そのものに、尊大な態度が組み込まれているということです。
 原理的に組み込まれているのですね。

 教えるとは、自分が理解していることを相手に伝える行為です。

 が、所詮、自分が理解していることです。
 それくらい相手も理解しているとみなすのが自然でしょう。
 少なくとも、相手と対等であろうとするならば、そうみなすべきなのです。

 そうはみなさないというのが、教えるという行為なのですね。

 ――自分がわかってるくらいだから、相手もわかってるだろう。

 では、教育が成り立ちませんから――
 つまり、

 ――相手を対等とみなさない。

 というのが教育です。

 通常、これが問題とされないのは、教わる側も教える側も、対等でないことを了解しているからです。

 が――
 どちらか一方が了解していなければ話は別です。

 教わる側が了解していなければ、当然ですね。
 理不尽に下位とみなされるわけですから――

 が、教える側が了解していなくても、問題となりえます。

 上位に立つべき者が無理に対等であろうとすると、下位の者の劣等感を誘うことがあるのです。

 ――上位に立つべき者が、きちんと上位に立つ。

 というのも立派な配慮なのですね。

 教育とは実に厄介な営みだと感じます。