教えるという行為には、尊大な態度で望まなければなりません。
尊大というのは、
――無礼に振る舞う。
とか、
――エラそうにいう。
とかいうことではありません。見かけ上は、
――謙虚に礼儀正しく――
に越したことはありません。
教えるという行為そのものに、尊大な態度が組み込まれているということです。
原理的に組み込まれているのですね。
教えるとは、自分が理解していることを相手に伝える行為です。
が、所詮、自分が理解していることです。
それくらい相手も理解しているとみなすのが自然でしょう。
少なくとも、相手と対等であろうとするならば、そうみなすべきなのです。
そうはみなさないというのが、教えるという行為なのですね。
――自分がわかってるくらいだから、相手もわかってるだろう。
では、教育が成り立ちませんから――
つまり、
――相手を対等とみなさない。
というのが教育です。
通常、これが問題とされないのは、教わる側も教える側も、対等でないことを了解しているからです。
が――
どちらか一方が了解していなければ話は別です。
教わる側が了解していなければ、当然ですね。
理不尽に下位とみなされるわけですから――
が、教える側が了解していなくても、問題となりえます。
上位に立つべき者が無理に対等であろうとすると、下位の者の劣等感を誘うことがあるのです。
――上位に立つべき者が、きちんと上位に立つ。
というのも立派な配慮なのですね。
教育とは実に厄介な営みだと感じます。