世の中のたいていのことは、心理で決まっている感じがします。
「世の中」とは人間社会のことです。
政治や経済の動向などは、その最たるものでしょう。
あれほど心理が関わっていることも珍しいーー
にもかかわらず――
10年くらい前の僕は、その関わりの重さを軽くみていました。
政治や経済は、どこかに実体らしきものがあって、それが自律的に動いていると錯覚していたのですね。
要するに思慮が足りなかったわけですが……。
ただし、必ずしも「錯覚」で片付けてよいことではないかもしれません。
人間の心理は目にみえません。が、存在はする――
だから、実体があるようにみなせば、そのようにも思えるし、自律的であるようにみなせば、そのようにも思える――
そのような曖昧模糊の側面が、政治や経済にはあります。心理がもつ曖昧模糊の側面に由来するといってもよいでしょう。
心理というものは、それを個とみても集とみても、曖昧模糊が本質なのだろうと感じます。
が、個と集とでは曖昧模糊の質が異なります。
個の曖昧模糊は、真摯な内省によって、ある程度は明瞭に自覚することが可能です。
が、集の曖昧模糊は、そうはいかない――内省では、いかんともしがたいところがあります。
もちろん、より客体的なのは集のほうです。
こちらのほうは、学問の対象としても全く違和感がありません。それくらい客体的ということですね。
だからこそ政治学や経済学が成り立つわけです。
ここに落とし穴が待っています。
政治や経済の動向を、自然現象と同じように理解したい誘惑にかられるのです。
この誘惑は甘美ですね。
少なくとも、以前の僕にとっては甘美でした。
政治や経済には実体があって自律的に動いている――
そうみなすことを単なる錯覚と片付けるのが惜しいくらいに、甘美だった――
そういうことですね。