僕は昔、大袈裟が好きであった。
何か主張したいことがあると、何の譲歩も付けず、ただただ過激に主張した。
例えば、
――人間の文化的活動の基礎は言葉だ。言葉の絡まぬ文化的活動など存在せぬ!
というように――
二十歳の頃の話である。
もちろん――
僕がいいたかったことは、こうだ。
――人間が文化的活動を営む上では言葉の関与が無視できぬ。
例えば――
絵画や舞踊は、言葉が主たる役割を果たしているわけでないことは認めるが――
それら文化的活動も、人間が社会生活を送る中で営まれる以上、多少なりとも言葉が関与しうる――
そういう意味である。
あるいは――
仮に、彫刻家が山奥に引っ込んで一日中、木像を彫ったところで――
その彫刻家のそれまでの精神生活は、言葉によって彩られてきたわけだから――
木像を彫る行為と言葉とが完全に無関係であるはずはない――
そういう意味である。
が、そういう意味にはとられず、よく喧嘩になった。
*
今は穏当な主張を心掛けている。
そうしたい気分なのだ。
理由は、わからぬ。
単に歳をとったというだけのことかもしれぬ。
あるいは、過激に主張することに飽きたのかもしれぬ。
穏当な主張は、面白みにかける。
良い意味でも悪い意味でも、人を惹き付けず、新鮮味がない。
一方、過激な主張は、人を惹き付け、ときに新鮮に感じられたりもする。
が、どこかで必ず反発をかったり、誰かを多少なりとも傷付けたりする。
もちろん、穏当な主張とて、反発をかったり傷付けたりすることはある。
が、穏当な分、被害は少なくて済む。
それがよい。
要するに――
反発をかったり傷付けたりすることに、僕は、もうウンザリなのだ。
もう十分に、そういうことをやってきた。
今さら再開したくはない。
程々でよい。