昨日の『道草日記』で、中年男が女子高生のセーラー服姿に猥褻を見出す例を挙げた。
その中で、僕は、この場合の猥褻が立ち上がる仕組みとして、「高級な猥褻」の構図に言及している。
「高級な猥褻」の構図とは、猥褻の主体が2つに分裂し、片方が客体化するといった構図をさす。
が――
僕は別に、女子高生のセーラー服姿に猥褻を見出すのに「高級な猥褻」の構図が必須である、といいたかったのではない。
「低級な猥褻」の構図でも、十分に事足りると思っている――
「低級」といったら語弊はあるが――
ただし――
女子高生のセーラー服姿に「低級な猥褻」を見出すのは、当世、かなり難しいのではないか。
そもそも、セーラー服を纏う当の女子高生たちには、サッパリわからぬ猥褻であろう。
――セーラー服はイヤらしいから着たくない。
とこぼす女子高生の話を、僕はきいたことがない。
そのような女子高生は、たぶん、半世紀ほど前であっても、かなり希少であったろうと思うのだが(だからこそ、セーラー服が今日まで伝えられたわけだが)――
女子高生のセーラー服に「低級な猥褻」を見出す男は、決して少なくなかったと、きいている。
女子高生のセーラー服の、どこが猥褻なのか――
笑い話と一緒で、猥褻の理由を説明し始めると一気に興が醒めるので、説明はしたくないのだが、要するに――
……いや、止めておこう。
説明したら最後、僕まで興が醒めるような気がしてきた。
とりあえず、今は、
――セーラー服の猥褻は白拍子の猥褻だ。
とだけ、いっておこう。
とにかく――
女子高生のセーラー服姿に猥褻を見出す場合、多くは「高級な猥褻」の構図をとるものと思われる。
その中では、セーラー服自体が、女子高生の――あるいは清純な少女の――記号と化しており、この記号の意味を、女子高生が自分と共有していると錯覚することで、男は、女子高生のセーラー服姿に猥褻を見出す。
「錯覚」は「虚構化」と言い換えてもよい。
とはいってみたものの――
やはり、邪道だな。
セーラー服はセーラー服である。あくまで「低級な猥褻」の構図の中で捉えるほうが素直でよい――
たとえ、そう捉える人々が、今日では、ほとんど存在しなくても――