猥褻には、主体と客体とが関わる。
猥褻を感じる側の視点が主体であり、猥褻を感じられる側の事象ないし感覚が客体である。
猥褻の最も単純な構図は、主体が客体に猥褻を見出すというものだ。
例えば、主体たる男子中学生が、女子高生の水着姿という客体に猥褻を見出す、といったように――
水着姿なら、これでよい。
が、セーラー服姿となると、構図は複雑である。
例えば、中年男が女子高生のセーラー服姿に猥褻を覚えるとき――
おそらく、中年男の主体は2つに分裂している。
分裂した主体の1つが女子高生の主体と重なり――
その女子高生の視点から、男は、女子高生のセーラー服姿という事象に猥褻を見出す。
そうした状況を、分裂した主体のもう1つが細かに俯瞰し、さらなる猥褻を見出す。
つまり――
男は、「女子高生たる自分」がセーラー服を纏って猥褻気分に浸るのを、「男たる自分」の目で眺め、より強い猥褻を見出す。
主体が分裂し、一部が客体化することで、猥褻の濃度は一気に高まる。
このように複雑な構図は――誤解を恐れずにいえば――「高級な猥褻」であって、例えば、男子中学生などには、とうてい理解できぬ猥褻であろう。
性経験を積み、異性の現実が見え始めてからでないと、わけがわからぬ。
ところで――
しばしば男の猥褻が女性に忌避されるのは――
こうした構図が無意識に察知されるからではないか。
男の主体が分裂し、一部が女子高生の主体に重なっている――などという事態は、たいていの女性にとっては、薄気味悪いに違いない。
本当は、男にとっても薄気味悪いのだが――
たいていの男は無自覚なので――
気分が悪くならずに済んでいる。
女性も男のことはいえぬ。
例えば、女性が性的魅力を感じる男の特徴は女性らしさだ。
おそらく、女性の主体が2つに分裂し、片方が男の主体に重なっている。
そのことを、男は特段、薄気味悪くは感じぬので、表沙汰にはならぬ。
ただし――
いわゆる「やおい」のレベルまでいけば、話は別だ。
女性の主体が分裂し、一部を客体化していることに、女性自身が、あまりにも無自覚だと――
男も嫌悪感を覚える。
猥褻は自己愛の一種であるということを――
人は肝に銘じたほうがよい。