マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

人が性犯罪者になるとき

 昨日の猥褻の話に、大急ぎで付け足したいことがある。

 猥褻には虚構を要するという話だ。

     *

 虚構のない猥褻は、猥褻ではない。

 ある程度の性経験を積めば誰でもわかるように――
 現実の性は、全くといってよいほど、猥褻ではない。

 猥褻が顕然するには虚構が必要である。
 現実の中心では、猥褻は容易には顕然せぬ。
 人の理性が厳しく戒めるからである。

 猥褻を顕然させる虚構のうち、最も健全なものは、恋愛であろう。

 僕らは、恋とか愛とかいった虚構を胸に抱くことで、何らかの猥褻を覚える。
 それが引き金となって、性欲が呼び覚まされる。

 もちろん――
 恋愛抜きの猥褻というものも、考えられる。
「考えられる」というよりも、むしろ、そちらのほうが、猥褻の本道であろう。

 例えば、僕らは、現実世界の恋人よりも虚構世界の俳優のほうに、より強い猥褻を見出す。
 映画の俳優が自分の恋人を凌ぐことなど、珍しくもない。

 とはいえ――
 虚構が強いほど、猥褻も強くなるかといえば――
 そうではない。

 虚構の有無が重要なのであり、その強弱は大して問題にはならぬ。

 例えば、電車の中で猥褻行為に及ぶ犯罪者の多くは、微々たる虚構しか必要とせぬはずだ。

 ――目の前の女は、オレに尻を触られるために、ここにいる。

 などと思い込むようなことでも、十分に違いない。

 裏を返せば――
 ほとんどの人々が、電車の中で犯罪者にならずに済んでいるのは――
 公共の場では一切の虚構を排除するように努めているからだ。

 ――目の前の女は、オレに尻を触られるために――

 などとは、普通、露も思わぬ。

 猥褻には虚構を要する。
 その程度は、いかようでもかまわぬ。
 虚構性が弱くなければダメな人、強くなければダメな人――様々であろう。

 そして――
 性犯罪者の予備軍とは、虚構を現実の中心に無自覚に持ち込む人々のことである。

 その持ち込み方が常軌を逸するとき――
 人は性犯罪者となる。