昨日の猥褻の話に、大急ぎで付け足したいことがある。
猥褻には虚構を要するという話だ。
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虚構のない猥褻は、猥褻ではない。
ある程度の性経験を積めば誰でもわかるように――
現実の性は、全くといってよいほど、猥褻ではない。
猥褻が顕然するには虚構が必要である。
現実の中心では、猥褻は容易には顕然せぬ。
人の理性が厳しく戒めるからである。
猥褻を顕然させる虚構のうち、最も健全なものは、恋愛であろう。
僕らは、恋とか愛とかいった虚構を胸に抱くことで、何らかの猥褻を覚える。
それが引き金となって、性欲が呼び覚まされる。
もちろん――
恋愛抜きの猥褻というものも、考えられる。
「考えられる」というよりも、むしろ、そちらのほうが、猥褻の本道であろう。
例えば、僕らは、現実世界の恋人よりも虚構世界の俳優のほうに、より強い猥褻を見出す。
映画の俳優が自分の恋人を凌ぐことなど、珍しくもない。
とはいえ――
虚構が強いほど、猥褻も強くなるかといえば――
そうではない。
虚構の有無が重要なのであり、その強弱は大して問題にはならぬ。
例えば、電車の中で猥褻行為に及ぶ犯罪者の多くは、微々たる虚構しか必要とせぬはずだ。
――目の前の女は、オレに尻を触られるために、ここにいる。
などと思い込むようなことでも、十分に違いない。
裏を返せば――
ほとんどの人々が、電車の中で犯罪者にならずに済んでいるのは――
公共の場では一切の虚構を排除するように努めているからだ。
――目の前の女は、オレに尻を触られるために――
などとは、普通、露も思わぬ。
猥褻には虚構を要する。
その程度は、いかようでもかまわぬ。
虚構性が弱くなければダメな人、強くなければダメな人――様々であろう。
そして――
性犯罪者の予備軍とは、虚構を現実の中心に無自覚に持ち込む人々のことである。
その持ち込み方が常軌を逸するとき――
人は性犯罪者となる。