マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

猥褻の精緻、豊穣

 僕は――
 結局のところ、

 ――猥褻(わいせつ)しか興味がもてぬのだ。

 ということを、強く自覚せざるをえぬ。

 こういうと、何だか、とんでもない変質者のようではあるが――
 案外、外れてはいないかもしれぬ。

 猥褻を「ワイセツ」と書く人も多い。
 僕はイヤである。猥褻は「猥褻」でないとイヤだ。「ワイセツ」では、この概念に固有の湿り気が、乾き切ってしまうような気がする。

 猥褻とは何か。

 性欲を呼び覚ます引き金となる事象ないし感覚――である。

 性欲は、ヒトなら誰でも備えている本能だ。
 その性欲が不適切に呼び覚まされたとみなされるとき、猥褻が顕然する。

 実際には、引き金に適切も不適切もないもので――
 何が猥褻かは、人々が恣意的に決めている。
 猥褻の基準が時代や地域によって異なるのは、そのためだ。

 僕が猥褻に惹かれる理由の一つは、この恣意性にある。
 猥褻の基準は、時代や地域によってだけではなく、個人によっても異なる。
 ある人にとっては猥褻なことが、他の人にとっては何でもなかったりする。
 100人いたら100通りの猥褻がある。

 恣意性だけではない。
 僕が猥褻に惹かれる一番の理由は、そこに理性を誘(いざな)う静謐が漂うからだ。

 理性を誘うとは――
 ある程度は頭で考えることが許される、ということである。
 考えれば考えるほどに、猥褻は精緻となる。

 もちろん――
 その理性は、すぐに獣性の欲望に隠れてしまうが――

 そして――
 静謐が漂うとは――
 ある程度は味わう余裕が許される、ということである。
 味わえば味わうほどに、猥褻は豊穣となる。

 もちろん――
 その静謐は、すぐに欲情の喧噪に隠れてしまうが――

 それら理性や静謐は、すぐに隠れてしまうからこそ、ひどく貴重なものに、僕には思える。

 猥褻は――
 精緻で豊穣な事象ないし感覚である。