猥褻について――
この前の日曜日から、あれこれと書き連ねてきたが――
結局のところ、猥褻というものは、
(分析するものじゃないな)
と、今は思っている。
分析した分だけ、価値が落ちる――
少なくとも、落ちるように感じられる。
猥褻は、ただの猥褻だから気楽なのであって――
理論で武装された猥褻というものは、いかにも猥褻らしくない。
もちろん――
猥褻を生業にする人は、別である。
官能小説家、アダルトDVDの監督、あるいは、それらの人々を助ける立場の人々にとっては、猥褻の理論は極めて重要である。
例えば、猥褻に自己愛的な要素のあることをわかっているか否かで、作品の質は大きく変わってくるはずだ。
猥褻を仕掛ける側にとって、猥褻の理論は、作品の質を保証する。
何を隠そう――
この僕も、猥褻の理論の重要性に気がついたのは、猥褻を仕掛ける側に回ってからである。
猥褻を受け取る側にいる間は、猥褻の理論など、ハッキリいえば、どうでもよいものである。
ただし――
猥褻を受け取る側にいるだけでは――
猥褻を心の底から楽しむことはできまい。
猥褻を楽しむには、心に余裕が必要である。
この点が、ウブな小・中学生には辛いところだ。
目の前に猥褻を突き付けられて頭が真っ白になるようなら、とても楽しむことはできぬ。
同じことは、小・中学生を子に持つ人々にもいえる。
猥褻で頭が真っ白になる子を置いたままでは、心に余裕を持つことは難しいだろう。
心に余裕が持てぬ間は、猥褻から遠ざかっておくことが賢明である。