夕方遅く、大通りを歩いていたら――
突然、中年女性に話しかけられた。
「ねえ、ちょっと――今ここにボトルを振り回した男の人をみかけなかった?」
「は? いえ、みかけてないですけど……」
「おかしいな。どこ行ったんだろう? いきなり、あたしの車を蹴ったり叩いたりして、とんでもないのよ」
すぐにピンときた。
「ボトルを振り回した男の人」は、心の病を抱えているに違いない、と――
それも、かなり重い病――である。
中年女性は、興奮した様子で、畳み掛けるように僕に訴えた。
「いきなり蹴ってきたのよ。最初は『恐い!』って思ったけど、腹が立ったから、こうして追いかけたきたのよ」
話をまとめると――
車を脇道に止めていたら、車体を蹴ったり叩いたりされたので、悔しくなったから、あとをつけてきて、大通りに出たところで、周囲の人を巻き込んで一気に取り押さえよう――
という魂胆だったらしい。
僕は図体がデカいので、格好の「取り押さえ要員」にみえたわけだ。
真実を知らぬというのは恐ろしい。
その中年女性にとっては、「ボトルを振り回した男の人」は、あくまで悪意に基づき、車を蹴ったり叩いたりした、と思い込んでいるのである。
が――
本当に悪意によるものなら、人は、もう少し巧くやる。
実際は――
心を病んでのことであろう。
心を病んでいるので、悪意も善意もヘッタクレもないのである。
他にどうしようもなく、ただ、そうしていたに違いない。
一刻も早く治療が必要な状態と思われた。
慌てて周囲の路上を見渡したが――
それらしき人影はみえない。
「おかしいな。どこ行ったんだろ?」
中年女性は首を傾げた。「ボトルを振り回した男の人」を心底、憎らしく思っているようにみえた。
(そうじゃないんだよ)
と思ったが――
適当な言葉は、みつからなかった。
とても言い解くことはできぬと思った。
何しろーー
その中年女性にとって、僕は医師などではなく――
ただの「取り押さえ要員」である。