マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

戦前の教育を全否定するのは

 ――国家百年の計

 という。
 国政は100年先を見通すものでなければならぬ、との格言である。

 が、100年先を見通すのは、生半可なことではない。
 日本の近代化を押し進めた明治政府は、それなりに成功を収めたとはいえるが――
 後継政府は、維新後、わずか80年足らずで、ポツダム宣言の受諾に追い込まれ、国体の完全護持を断念した。
 あの明治政府でさえ、

 ――国家百年の計

 を誤った、ともいえる。

 もっとも――
 明治政府が築いた官僚組織は、その後も残存し、例の高度経済成長をもたらしたといえるので――
 完全に誤ったわけではない。
「半分くらいは誤った」というのが正しい。

 いずれにせよ――
 国政は100年先を見通すものでなければならぬ。

 が、軽々しく「100年」と口にするものではない。

 100年先といえば――
 今夜、ネットの端末を弄る人々の大半は、すでに、この世にはない。僕などは、確実に、この世にいない。

 自分の死後の世のことまで見通すことなど、はたして、人間業といえるであろうか。
 明治の元勲たちに、泉下で、ポツダム宣言の受諾の責任を問い詰めても、

 ――俺たちは自分の責任は果たした。

 と抗弁するに違いない。

 だから、やはり真に大切なのは、

 ――国家十年の計

 あるいは、

 ――国家一年の計

 なのである。
 1年先、10年先を見通すことで、100年先を間接的に見通す。

 ただし――
 100年先は人任せ――子孫任せ――である。100年先を託せる子孫は、1年先、10年先を見通すことで、初めて育てることができる。

 明治の元勲たちは、1年先、10年先を見通す力は申し分なかった。
 が、100年先を託せる子孫に欠けた。
 その責任は、取りも直さず、彼ら自身の子孫の育て方にあった。

 先般、教育基本法の改変に突進した人々は、

 ――戦前を全否定するのは愚かなことだ。

 などと論陣を張っている。

 たしかに、その通りである。

 が、戦前の教育を全否定するのは、賢明だ。
 平成の僕らは、明治の元勲たちの誤りを、決して繰り返してはならぬ。