昨日の『道草日記』で、戦前の教育は全否定されるべきだと述べた。
もちろん、概論的に「全否定」ということであって、一つひとつの些事をシラミつぶしに否定していくわけではない。
全否定されるべきは、国家が教育を主導した実態である。
戦前の教育は、国家が特定の見解を基に現場を主導したところに、最大の特徴がある。
その見解とは、
――個よりも衆に重きを置くべし。
との見解だ。
個は衆の一員であり、常に衆に尽くさねばならぬ、という考え方である。
この見解の問題なところは、個と衆との関係が一方通行である点だ。
衆が個を一方的に抑圧しかねぬ。
たしかに、個は衆に尽くさねばならぬ。
が、同時に、衆も個に尽くさねばならぬ。
個が衆に尽くすのは、結局は個が己を守るためだ。
戦前の教育が、個と衆との関係を一方通行にしたわけは、難しくない。
衆の最たるものたる国家が、教育を主導したからだ。
衆も最後は己のことしか考えぬ。
国家が教育を主導すれば、その内容が衆に都合の良くなるのは、当たり前だ。
そうであってはならぬ。
個と衆とは、互いに相補的でなければならぬ。
戦後の教育は、個が突出したといわれる。
先日、教育基本法を改変した国会議員たちも、そのような問題意識を抱えていたようだ。
たしかに、困ったことではあった。
個は、衆なくしては成り立たぬ。
が、だからといって、国家が、
――個よ、衆を重んじよ。
と求めてはならぬ。
国家が教育を主導すれば、それだけで教育は歪む。
どんなに良い主導であっても、必ずや歪む。今度は、衆が突出する。
教育基本法を改変した国会議員たちの問題意識は、間違ってはおらぬ。
個が突出した戦後の教育は、改めねばならぬ。
が、これを本気で改めたいのなら――
まず、国会の職を辞し、国家との関係を断ち切ってからにせねばならぬ。
国権を統制する者に、教育を主導する資格はない。
教育には、個の理屈ないし衆の理屈のどちらにも偏らぬ者だけが担える――そういうものである。