マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

ファンタシーと文芸の本質と

 ――小説

 といえば、ファンタシー小説のことであった。

 なぜ、「ファンタシー」が「小説」の代名詞になってしまったのか――
 自分でも、よくわからずにいる。

 ファンタシー小説以外の小説は、どうも物足りない。
 例えば、ミステリ小説などは、読んだあとに必ず、

 ――だから、どうしたの?

 と、さめてしまう。
 無理して読んだ反動が、最後になって現れるのだと思う。

 ファンタシーは、物語の世界を描く。
 世界をいじれるのだから、事象や人物も思いのままだ。かなり自由に描ける。

 が、ミステリでは、そうはいかない。
 自由に描けるのは事象のみであり、世界や人物は、かなり厳しく現実に縛られる。

 去年だったか――
 とある売れっ子のミステリ作家の随筆を読んだ。
 その一節に、非科学的なミステリを槍玉にあげるくだりがあった。
(おとな気ないな)
 とは思ったが――たしかに、本気でミステリ小説を書く以上は、そうした気構えでもない限り、到底やっていられないのだろう。
 やっていられるのは、科学の素養に乏しい人である。そのミステリ作家は、科学の素養が豊かな人であった。

 少し深入りをしすぎた。

 ――ミステリ小説なんか嫌いだ!

 という話ではない。
 なぜファンタシー小説に惹かれるのか、という話である。

 僕にとって、ファンタシー小説以外の小説は、どうにも息苦しい。
 その一例として、ミステリ小説を挙げた。

 自由度の問題である。
 ファンタシーの自由度に慣れてしまうと、例えば、ミステリの自由度が物足りない。
 純文芸にせよ、歴史小説にせよ、官能小説にせよ、そうである。

 もちろん――
 ファンタシー小説を、自由度が高すぎるという理由で、毛嫌いする人もいる。
 自由度を文芸の絶対基準に据えるのは、愚かなことだ。

 が――
 文芸の本質は――少なくとも、文芸の重大な目的の一つは――人を描くことだろう。

 何かの目的に向かって邁進するときには――
 自由度は高いほうが、よいのではないか。

 そういう意味で――
 ファンタシーは、文芸の本質からは、そう遠くない。