いわゆる『あるある大辞典』の捏造問題について、強く思うのだが――
原因は高校までの理系教育にある。
現在、高校までの理系教育には深刻な欠陥がある。
――実験がない。
ということだ。
それらしきものはある。
教科書の写真を実践するような「実験」だ。わかっていることを実物で確認する手続きである。
が、実験とは、そういうものではない。
仮説を立て、その妥当性を検証する――その過程で、実験は行われる。
例えば、
――納豆を食べ続けると痩せる。
というのが仮説である。この妥当性を判断するために、実験を行う。
この場合は、ある人たちに納豆を食べ続けてもらい、他の人たちには納豆に似た物を食べ続けてもらうということが、実験に相当する。
仮説の妥当性は、実験の結果によってのみ判断される。
仮説が否定されようが肯定されようが、実験の結果の意義はゆるがない。
実験とは、そういうものである。
実験は、観測でも計算でもよい。
とにかく――仮説を提示し、その妥当性を検証しようとする態度が、科学の素養の本体である。
高校までの理系教育で最も重要なのは――
この素養を、いかに身につけさせるか、だ。
が――
僕の知る限り、こうした教育は、大学の一般教養課程に至るまで、ほとんど行われていない。
だいたい――
高校生の段階で早々と理系・文系に区分する始末である。
今は高校全入時代といってよい。
もし、全ての生徒に対し、
――仮説を立て、その妥当性を検証するために、実験を行う。
ということを、3年間かけてジックリと教えてやれば――
たとえ、多くの生徒が、その本当の意義は理解できなくても――
せめて今回のような騒動は防げたに違いない。
『あるある大辞典』のような番組には、放送開始と共に苦情が殺到し、1クールも保たなかったであろう。
日本人の多くは英語を喋れない。
が、英語を喋れれば、それなりに得をする――あるいは損をしない――ということは、皆がわかっている。
なぜか。
高校までの文系教育で、全ての生徒に対し、英語をジックリと教えているからである。
英語でできて、なぜ実験でできないのか。
この場合、現場の教師を責めるのは酷である。
裁量面で限界がある。
教育行政担当者の不見識とみるべきであろう。