電車に乗って、ぼおっと窓の外を眺めていると――
生活上の重大問題も些細に思えるときがある。
(ひもじい思いをすることもなく、こうして、ただ座っているだけで、自然の景色の移ろいを眺めることができるのだ。いったい、これ以上の何を望むべきだというのか)
と――
――世捨て人を気取ってるよ。
と嘲(あざけ)る人もあろうが――
人間――
一度くらいは世捨て人を気取ったほうがよい。
いや――
一度といわず、日に何度でも――
*
父が還暦前に病で亡くなってからというもの――
僕は、仏教の考え方に、徐々に傾倒しつつある。
仏教では、
――生きる。
のではなく、
――生かされている。
と考える。
あるいは、
――もらった命
ではなく、
――貸してもらった命
と考えることもあるそうだ。
驚きである。
命とは借り物なのだ。
借り物だから、いずれは返さねばならない――
そうやって返し、この世に別れを告げるのが、生を受けた者の宿命だ――
と、仏の教えは諭(さと)している。
こういう教えに触れ続けていると――
世を捨てているのは、むしろ世捨て人ではないほうかも――
と、思えてくる。
朝から晩まで、汗水たらして働いて――
行き帰りの通勤電車は眠ってやりすごし――
車窓の景色に心を奪われるゆとりとてない――
そういう人々をこそ、世捨て人と呼ぶべきではないか、と――
たぶん――
世捨て人を気取ることで――
世を拾い直すことができる。