マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

歩きながら気が付いたこと

 久しぶりに仙台の街を歩いた。
 30分くらいである。

 何も考えずに、ただひたすらに、のんびりと歩いた。

 リラックスすることだけを考えるなら――
 のんびりに限る。

 そうやって歩くと――
 色々なことを思う。

 時折――
 遠い過去の一幕が思い出される。

     *

 中学生の頃――
 僕のことを滅多に褒めなかった母に、褒められたことがある。

 2階の自室で横になっていたら――
 にわかに階段を昇る足音が聴こえてき――
 母が、のっそりと顔を出した。

 そして――
 その前の日だか、その日だかに僕がやったことについて、とって付けたような褒め言葉を口にした。

 猫なで声に聴こえた。

 気持ち悪かった。

 母は、なぜ、あのタイミングで褒めたのか――

     *

 人の誠意や努力は、それを目の当たりにしているときには、なかなか評価できぬものである。

 何かの切っ掛けがあって初めて――
 評価できる。

 その切っ掛けというのは、多分、人によって異なるのだが――
 たいていは、余人に思い及ばぬものであったりする。

 僕にとっての切っ掛けも、多分、そうである。
 今日の『道草日記』の読者の方には、御想像もできまい。

 その中身を、ここで開陳するつもりはない。
 そんなことは、毎日更新のブログ形式には不向きである。

 ただ、そのような、

 ――余人には思い及ばぬ切っ掛け

 がある、ということに気が付いた――とだけ述べておこう。

 その切っ掛けは母にもあったに違いない。

 あの日、中学生の僕を、とってつけたように褒めた母にも、そういう切っ掛けが訪れていたに違いない。

 その切っ掛けは――
 実の母子だから――
 多分、僕の切っ掛けと似たものである。

 そういう切っ掛けの到来によって――
 あの日の僕は、とって付けたように褒められたのだということに――
 今日の僕は気が付いた。

 夕方――
 仙台の街を流れる広瀬川を渡って――
 青葉通りに差し掛かった頃である。