マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

踊りと人形と

 踊りが人の目を楽しませてくれるのは――
 例えば、人形が人の目を楽しませることに通じていると考えている。

 踊りを一言で表すならば、

 ――人の意識によって意匠された動作の連なり

 といった感じになろう。
 この「動作の連なり」は、人体を人工的に制御することで、成り立ちうる。

 一方、人形というものは、人体を模した人工物であり――
 人体が物体化されることの一つの結果である。

 もちろん、踊りの物体化と人形の物体化とは、明らかに異質である。
 が、似かよってはいる。

 人体の構造を人工物に組み込むか、人体の所作を人工的に操るかの違いである。

 僕は――
 人形が持つ魅力は、人体の人工化に根ざしていると考えている。

 であるならば――
 踊りには、人形が持つ魅力に通底した魅力を、備えているのではないか――

 こうした考察が、僕にとって退屈なものにならないのは――
 人形の魅力の過半は猥褻的だと感じられるからだ。

 つまり、踊りは、人形の猥褻的な要素に通じる何かを含んでいるのでないか、ということになる。

 誤解のないようにいっておくと――
 僕は、猥褻を大変に結構なモノだと思っている。

 全ての芸事の根幹に据えるべきではないかとさえ、思っている。

 だから――
 踊りが猥褻的だという指摘は、決して貶めのためではない。

 古来より、踊りは人の目を楽しませてきた。
 少なくとも、現近代になって、にわかに注目され始めたことではない。

 その魅力は、十分に原初的な階層にとどまっているとみるべきであろう。

 猥褻は猥褻でも、当世風の猥褻とは、ちょっと違う――
 ヒトがヒトとして進化的に生い立ってきた原始の頃の猥褻に違いない。