マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

“人体の人形化”で溢れている

 レオタードを着せる操作は、

 ――人体の人形化

 である――
 ということを――
 連日『道草日記』で述べてきましたが――

 ……

 ……

 ――人体の人形化

 に関わるのは――
 何もレオタードだけではありません。

 人体をただの物として扱う事例――あるいは、ただの物として扱っているかのようにみえる事例――は、枚挙の暇がありません。

 例えば――
 写真撮影も、

 ――人体の人形化

 の1つといえます。

 画像として写し出された人体が物として扱われるという意味で――
 写真撮影は“人体の人形化”ですし――

 また、写真撮影をする際に被写体の人に何らかのポーズをとらせるのであれば――
 その、

 ――何らかのポーズをとらせる操作

 が、“人体の人形化”にあたります。

 ……

 ……

 僕は、“人体の人形化”が背徳感を生むと主張しています。

 よって、

 ――写真撮影も“人体の人形化”である。

 ということは――
 もちろん、

 ――写真撮影も背徳的だ。

 というに等しくなります。

 よって――
 このことを繰り返し主張していると、

 ――何でもかんでも「人体の人形化」と呼ぶな!

 と――
 たぶん方々で怒られるのですが――

 ……

 ……

 僕は――
 考え方を逆転させています。

 すなわち、

 ――そもそも“人体の人形化”が、僕らにとって、あまりにも身近な操作なのだ。

 と――

 ――人の文化的な営みは、古来より、“人体の人形化”に伴う背徳感で溢れているのだ。

 と――

 ……

 ……

 人は、放っておいたら、すぐに“人体の人形化”を試みてしまう――
 そういう存在なのだ、と――

 僕は思うことにしているのです。