――“人体の人形化”は、人の文化的な営みに溢れている。
ということを――
きのうの『道草日記』で述べました。
このことは――
端的にいえば――
人の周囲は、“人が関わる物体”で満ちている――つまり、人体で満ちている――からこそです。
もちろん――
“人が関わる物体”以外にも、“人が関わる事象”ないし“人が関わらない事象”や“人が関わらない物体”で、人の周囲は満ちているのですが――
これらのうち――
“人が関わる事象”については――
そもそも――
そう簡単には弄れません。
人の体で起こっている生命現象を操作したり、人の心で起こっている精神現象を操作することは――
実際にやってみようと思えば、すぐにわかりますが――
まったく簡単なことではありません。
が――
“人が関わらない事象”や“人が関わらない物体”については――
そこそこ簡単に弄れてしまいます。
それゆえに――
これらを散々に弄ってきた結果――
人は、今日の文化を築き上げてきたわけです。
ただし――
“人が関わらない事象”や“人が関わらない物体”を弄ることは――
“人が関わる物体”を弄ることほどには、たぶん面白くありません。
面白くないというか――
スリリングでない――
……
……
なぜか――
……
……
おそらくは、
――背徳的ではないから――
というのが――
僕の答えです。
人が、同じ人として、“人が関わる物体”を弄ることは――
少なくとも、“人が関わらない事象”や“人が関わらない物体”を弄るよりは――
背徳的です。
――同じ人としての分を越えている。
という意味で――
背徳的です。
背徳的であるがゆえに――
人は、“人が関わる物体”――つまり、人体――を、つい熱心に弄ろうとしてしまう――“人が関わらない事象”や“人が関わらない物体”を弄っているよりもスリリングだから――
本当は、“人が関わる事象”――生命現象や精神現象――についても――
もっと熱心に弄りたいのです。
が――
そんな技術はない――
もし――
そんな技術が新たに生み出されれば――
人は、しばらくの間、目の色を変えて弄ろうとするとでしょう――“人が関わる事象”のほうを――
その前に――
法律が厳しく取り締まるでしょう――たぶん――