マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

不思議であることが不思議ではない

 最近の僕は、この『道草日記』に、自分の日常の情景を、ほとんど書いていない。
 なぜ書いていないのかといえば――

 ちょっと話が長くなる。

     *

 実は最近――
 一人で過ごす時間が、ずいぶんと少なくなってしまったのだ。

 日常の情景というものは、一人で過ごさぬのであれば、かならず他人と共有することになる。
 他人と共有したものを、自分に固有の『道草日記』に書き散らすことは、あまりやりたくない。

 つまり、一人で過ごす時間が少ないということは、自分が自由に扱える日常の情景が少ない、ということなのだ。

 とはいえ――
 一人で過ごす時間が全くないわけではない。

 例えば、副業先に出向く電車の中では、一人で過ごしているといえなくもない。

 そういえば――

     *

 今朝、僕の斜(はす)向いには、色あせたジーパンとヨレヨレのシャツを着た中年の男性が座っていた。

 体格が良く、肌は日に焼けていて――
 いかにも工事現場でキツい仕事をやっていそうな人である。

 で――
 その人は、右手に文庫本を持ち、一心不乱に読んでいた。

 カバーをしていなかったので、タイトルは丸見えである。

 カミュの『異邦人』であった。

     *

 このような日常の情景を――
 僕は、毎日、楽しんでいる。

 が――
(だから、どうした!)
 というのだろう。

 そういう情景をみてしまうと――
 何年か前の僕なら、深く感じ入っていた。

 本当は、そんなことに深く感じ入っているほうが、不思議なのである。

 日常の情景は不思議なことで溢れている。
 むしろ、不思議であることが不思議ではないのだ。

 不思議でないことに囲まれている人間のほうが、はるかに不思議である。

 なぜならば――
 世の中には、不思議でないことに囲まれている人間などはいないからだ

 不思議でないことに囲まれているつもりになっている人間が、いるだけである。