マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

医学では実験ができぬ

 医学では、

 ――物語として美しい説明は、頭から疑ってかかれ。

 という鉄則がある。
 例えば、ある症状Sを抱えている患者が、ある薬Dを飲んだら、症状がなくなったとする。
 このときに、

 ――薬Dは症状Sに効いた。

 という説明は、物語としては美しい。
 が、この説明を安易に信じてはならぬというのが、医学(臨床医学)の基本である。

 ――「飲んだ、治った、ゆえに効いた」を信じてはならぬ。

 というのが、医学生への一般的な警句の一つだ。

 その理由は何かと問われれば、

 ――体は、しばしば勝手に治ってしまうから――

 である。
 文字通り、人知を越えたところで治ってしまう。

「現代医学は高度に発展し――」などといわれるが――
 実際のところは、よくわかっていないことが多い。

 体の造りも仕組みも複雑すぎて、単純明快に理解することは不可能だ。

 たしかに、ここ半世紀で概観的理解は整った。
 その理解を基に、医師は「医者っぽく」振る舞っている。

 が、実際は――
 体は、依然、ブラックボックスの要素を、多分に含む。

 そういう対象を相手にするときには――
 物語として美しい説明など、いくらでも捏造できてしまう。

 科学の世界では、物語として美しい説明が十分な説得力をもつことがある。
 例えば、理論物理学のような世界では、

 ――数学的に明快だから正しい理論だろう。

 というような予測が、立派な市民権を得ているらしい。

 それを、医学の世界で認めたら、大変だ。
 物語として美しい説明だけで、世界は溢れてしまうだろう。

 医学では実験ができない。
 これも大きい。

 もし、どうしても実験をするなら、人体実験となる。

 医学も、科学のように自由に実験ができるなら、科学と同じように、物語として美しい説明の多くをムリなく淘汰させられるであろう。

 が、人体実験をするわけにはいかない。
 医学での実験は、その実験が決定的であればあるほどに、非倫理的かつ反道徳的となる。
 倫理や道徳は、医学の発展に勝る。

「医学では実験ができぬ」という制約があるために――
 医学では、いくらでも勝手なことがいえる。

 だからこそ、勝手なことをいってはならぬのだ。