マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

学問は役に立つか

 不安というのは、

 ――対象のない恐怖

 だといわれる。
 つまり、何を恐れているのか自分でもわからぬようなときに、人は不安を感じている。

 ――そんなことがあるのか?

 と訝る向きもあろう。

 あると僕は考えている。

 誰かが不安を感じているとき――
 その人は恐怖の対象を、たぶん無意識的には察知している。

 が、意識的には察知できていない。
 だから、自分では何を恐れているのか、わからない。

 意識・無意識の概念とは、そのようなものである。

 であるならば――
 誰かの不安を軽くさせようと思ったら、恐怖の対象に気づかせたらよい。

 例えば、明日に試験を控えて不安でいっぱいの学生に、

 ――そういえば、だいぶ勉強をサボってたよね。

 と囁いてやる。
 そうすれば、とりあえず不安は軽くなる。

 ただし、その分、激烈な恐怖が込み上げよう。
「試験に勉強不足で臨まねばならぬ我が身の境遇」という恐怖の対象が自覚されるので――

 さて――
 どちらが幸せであろうか――
 不安でいっぱいの学生と、恐怖で震え上がっている学生と――

 もちろん――
 僕は冗談をいっている。

 どちらも幸せではありえない。
 不安も恐怖も、ともに不快な感情だ。

 それでも――
 例えば心理学では、不安と恐怖との関係性を、以上のように記述したりする。

 何の役に立つのかわからぬが――
 何となくはスッキリする。

 心理学に限らない。
 学問とは、概して、そうした類いの営みである。