一般に――
当事者でもないのに、何かの社会的事象について、熱心に突っ込んで語るのは――
ひどく危なっかしい。
控えたほうが無難である。
例えば、僕は、大学時代は医学を学び、大学院時代は神経科学に携わったので――
医療や科学については、それなりに語ることができるし、それなりの説得力を付与することもできるであろう。
が、例えば、政治やプロ・スポーツについては、そうではない。
僕は、政治家になったことはないし、政治家の近くにいたこともない――プロの選手になったことはないし、プロの選手の近くにいたこともない。
にもかかわらず――
僕は『道草日記』で、しばしば政治やプロ・スポーツの話を書く。
そこに自分なりの基準は設けているつもりだ。
切り口は、
(僕も政治やプロ・スポーツの当事者になれはしないか?)
というものである。
政治家やプロの選手ではなくても、当事者にはなれる――
例えば、僕は政治の世界では有権者であり、プロ・スポーツの世界ではファンである。
つまり、「自分なりの基準」というのは、
――有権者として語る。
あるいは、
――ファンとして語る。
ということである。
が――
いつもスッキリと整理できるわけではない。
『道草日記』に書くくらいだから――
僕は、政治やプロ・スポーツに結構な関心を寄せている。
ので――
語っているうちに、どうしても熱くなりすぎてしまう――まるで、政治家やプロの選手になったかのような口調で語ってしまう。
困ったことである。
有権者であるとは、どういうことか――
ファンであるとは、どういうことか――
もう少し見つめなおす時間が欲しい。
が――
たぶん、この先も、政治やプロ・スポーツのことは書き続けるであろう。
見つめなおすには、書き続けるのが一番だと思っている。