マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

科学者と哲学者と

 ――科学者は土俵の上で勝負をするが、哲学者は土俵作りで勝負をする。

 と思っています。

 科学者は、すでに出来上がっている土俵に上がり、そこで懸命に相撲をとるけれども――
 哲学者は、すでに出来上がっている土俵を眺め、その横に自分なりの土俵を作る――

 土俵に上がるとは、何か仮説を考え出し、その仮説の妥当性を判断するために、実験や観測や計算を実行するといったことを指し――
 土俵を作るとは、何か仮説を考え出すために、知見を整理したり、議論のルールを定めたり、術語を定義したりすることを指します。

 もちろん、科学者も、ときには土俵を作り、哲学者も、ときには土俵に上がりますが――
 それが主要な目的ではありません。

 科学者が土俵を作るとき――あくまで目的は、その上で相撲をとるためで――
 哲学者が土俵に上がるとき――あくまで目的は、その横に土俵を作るためです。

 よって、科学者は、しばしば土俵を渡り歩きます。

 ――ここは、もういいや。次に行こう。

 というように――

 また、哲学者は、しばしば土俵を取り壊します。

 ――こんなもの、あってもしょうがない。

 というように――

 この比喩は、もちろん、完璧ではありませんが、科学者と哲学者との気質の違いを説明する上では、大変に威力を発揮すると、僕は考えています。

 例えば――
 科学者が哲学者に向かっていう悪口――「あいつらは物を知らなさすぎる」などや――
 哲学者が科学者に向かっていう悪口――「あいつらは物を考えなさすぎる」などの――
 動機を説明することができます。

「物を知らなさすぎる」というのは、知っている土俵の数が少ない、あるいは、相撲の決まり手を知らないということであり――
「物を考えなさすぎる」というのは、個々の土俵の存在意義に配慮しない、あるいは、土俵の素材や構造に注意を払わないということです。

 つまり――
 土俵を作る人は、一つの土俵に絞って、その存在意義を詳細に検討し、あるいは、その素材や構造を把握するほうが有利であり――
 土俵に上がる人は、様々な土俵に関して、個々の特徴に精通しており、あるいは、相撲の決まり手に習熟するほうが有利だ、ということです。

 本当は、土俵を作り、かつ、土俵に上がる人が理想です。
 科学者は哲学者であり、哲学者は科学者であるべきです。

 が、科学と哲学との分離は、もはや取り返しのつかない段階に入っているでしょう。

 せめて――
 その分離の現実を正しく認識することが肝要です。