マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

世界は重なっている

 人は皆それぞれに独自の視点で世の中をみています。
 つまり、

 ――人は、それぞれに固有の世界を持っている。

 といってよいと思います。

 したがって、人が2人あつまって世の中のことを語るときには、2つの世界が重なっているわけです。
 5人あつまれば、5つの世界が重なっている――
 500人あつまれば、500の世界が重なっている――
 50,000人あつまれば、たぶん50,000の世界が重なるでしょう。

 50,000人(5万人)くらいなら――例えば、プロ野球のスタジアムなどに――あつまることは珍しいことではありませんが――
 5,000,000人(500万人)となれば、なかなかに難しいでしょう。

 仮に500万人があつまって世の中のことを語るとすれば――
 そこでは500万の世界が重なることになります。

 世界の人口は、概算すれば、50億です。
 つまり、世界の全ての人間があつまって世の中のことを語るとすれば、そこでは50億の世界が重なることになる――

 もう、何が何だか、わからなくなりますね。

 これだけ多くの世界が重なると、そうやって重なってできる世界は、いったいどのようなものでしょうか。

 まったく想像もつきませんが――
 たぶん、僕ら一人ひとりが考える世界とは全く異なる世界のはずです。

 にもかかわらず――

 ここからが重要なことですが――

 にもかかわらず――
 僕らは、自分の考える世界が唯一の世界であると、つい考えがちなのです。

 もし、唯一の世界があるとするならば――
 それは、50億の世界の総和として定義されるのがフェアなわけですが――
 そんな世界が、僕らの想像から遠く離れているであろうとことは、容易に想定できることです。

 1枚のフィルムで撮られた映画なら、想像はできますが――
 50億枚のフィルムの重ね撮りで撮影された映画など、想像もつきません。

 真っ黒で何もみえないのかもしれませんね。

 自分の考える世界が唯一の世界とみなすことは――
 50億枚のフィルムの重ね撮りを、1枚のフィルムで代替させるようなものでしょう。

 不毛なことです。

 1枚のフィルムで代替させようという発想も不毛ですが――
 そもそも、50億枚のフィルムの重ね撮りで撮影された映画の存在自体が、不毛に違いありません。

 唯一の世界というのは幻影であって、実際には、どこにも存在しえない――
 ということです。