マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

寛容の精神の心髄

 人は、どんな人にも寛容に接するのがよい――
 とされていますが――
 
 では――
 どんなに不寛容な人に対しても、人は寛容であるべきなのか――
 
 そういう疑問が生じますね。
 
 皆さんは、どのように思われますか。
 
 ……
 
 ……
 
 理想の回答は、
 
 ――不寛容な者にも寛容たれ。
 
 なのだそうです。
 
 理由は、ごく単純で、
 
 ――不寛容な人に不寛容でいると、ますます互いに不寛容になっていくから――
 
 つまり――
 不毛な“不寛容合戦”を防ぐためには、不寛容な相手にも寛容であるしかない――
 ということのようです。
 
 ……
 
 ……
 
(たしかに、そうなのだろうなぁ)
 とは思うのですが――
 
 ここでいう“不寛容な相手にも寛容である”が、
 
 ――不寛容な人のいいなりになる。
 
 を意味するのだとすると――
 ちょっと問題でしょう。
 
 たしかに――
 そうすれば、不毛な“不寛容合戦”は防げるかもしれませんが――
 今度は、“不寛容”が“寛容”を隷従させかねない――
 
 それでは、2人の人間関係は“不寛容”で支配されることになります。
 
 それは、さぞかし殺伐とした人間関係に違いありません。
 
 思うに――
 ここでいう“寛容である”とは、“やさしく接する”とか“丁寧に接する”とかいう意味ではなく、
 
 ――相手に強い関心も強い執着も抱かずに接する。
 
 くらいの意味ではないでしょうか。
 
 ――どうぞ、どうぞ、ご自由に……。ただし、必要以上に私は関わりませんけれど……。
 
 これが寛容の精神の心髄ではないか、と――
 
 今の僕は、そう思っています。