マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

未完成や不完全を赦そうと

 ――未完成

 や、

 ――不完全

 ということに――
 ここ1~2年で耐性ができてきました。

「耐性」といいますか、「免疫」といいますか――
 要は、

 ――寛容の精神

 ですね。
 いわば、未完成や不完全を赦そうとする心――

 例えば――
 ある芸術作品を鑑賞していて、
(この部分は最後まで十分には仕上がってないな)
 とか、
(どうしようもない欠陥が修正されずに残ってるな)
 とかいうことに気づくと――
 10代や20代の頃は、その作品に容赦なく“ダメ出し”を行っていたのですが――

 40歳を過ぎた今は、
(たしかに、未完成ないし不完全だけれど、他の作品にはない素晴らしさもある)
 と思うようになっているのです。

 そもそも、
(完成した作品ないし完全な作品を探し出すほうが難しい)
 ということを――
 痛切に感じるようになっています。

 10代や20代の「完成」や「完全」と40歳を過ぎてからの「完成」や「完全」とでは――
 なぜか、完成の到達度や完全の達成度が違って感じられるのですね。

 10代や20代の頃の「完成」や「完全」よりも、40歳を過ぎてからの「完成」や「完全」のほうが、より完成されている、より完全である――

 あるいは――
 10代や20代の審美基準よりも、40歳を過ぎてからの審美基準のほうが、より厳しい――

 そういうことであろうと思います。

 これは、どうしたことか――

 ……

 ……

 ちょっと逆説的ですが――

 たぶん――
 芸術作品の良さを厳しく見極める目を持ってしまったがゆえに、未完成や不完全に寛容になれる――その寛容の精神を繰り返し試されることになるから――
 ということであろうと思っております。

 心から堪能できる完成や完全などには、滅多にお目にかかれなくなるものですから――
 かえって、未完成や不完全を赦そうという気持ちになれる――
 ということですね。