物語を読み込む力というのが、少しは重視されてもよいと考えます。
物語を読み込む力とは、虚構の受け手に徹する力――柔軟性、想像力、集中力――です。
例えば、小説で、次のような物語に触れたとしましょう。
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少年は初めてのデートに出かける朝に――
食卓の上に放っておかれたイチゴのショート・ケーキを、ズボンのポケットに捩じ込んだ。
そして、少女が待ち合わせの場所に現れたときに――
それをポケットから掴み出し、少女の顔面に投げつけた。
「お前の全てが欲しい!」
少女は、一瞬にして恍惚の笑みを浮かべ、
「私の全てを貴男にあげたい!」
と叫んだ。
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ええ~(笑
何ともハチャメチャな物語ですね。
この少年、いったい何者だ、と――
そもそも、ケーキをポッケに詰め込むな、と――
グショグショになるじゃないか、と――
気持ち悪くないのか、と――
しかも、初めてのデートだぞ、と――
それを彼女に投げつけるか、ふつう、と――
彼女も彼女でヘンだろう、と――
いきなりケーキを投げつけられて、恍惚の笑みなんか浮かべるな、と――
しかも「一瞬にして」なんて意味わかんねえし、と――
よって、
――この物語は破綻している。
と、鼻で笑う人がいたら――
その人には、物語を読み込む力が欠けているのです。
逆に、
――とんでもないヤツらだ。どんな恋愛するんだろう!
と、目の色を輝かせるなら――
物語を読み込む力が備わっている――
つまり、物語を読み込む力というのは、いかなる描写をも受け入れる柔軟性と、その描写から現実感を構築する想像力と、その現実感を持続させる集中力です。
そういう力が備わっている人は――
仮に「イチゴのショート・ケーキ」が「イチゴのチーズ・ケーキ」であっても、「ニワトリのフォアグラ」であっても――
まったく動じないのです。
――イチゴなら、ふつうショート・ケーキだろう?
とか、
――ニワトリのフォアグラなんて、きいたことねえぞ!
とか突っ込んだりしないのですね。
そういうものだと思って受け入れる――
つまり、そういうものが存在する世界として柔軟に考えるか、「チーズ・ケーキ」や「ニワトリ」である理由に想像を巡らせるか――
まあ、別に突っ込んでも構わないのですが――(笑
それは、物語を味わう姿勢とは相容れません。
まったく異なる楽しみ方といえましょう。
そうした楽しみ方は、ひとたび物語を読み込んだ後で、物語とは基本的に無縁の文脈でのみ、価値をもってきます。