マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

物語を読み込む力

 物語を読み込む力というのが、少しは重視されてもよいと考えます。

 物語を読み込む力とは、虚構の受け手に徹する力――柔軟性、想像力、集中力――です。
 例えば、小説で、次のような物語に触れたとしましょう。

     *

 少年は初めてのデートに出かける朝に――
 食卓の上に放っておかれたイチゴのショート・ケーキを、ズボンのポケットに捩じ込んだ。

 そして、少女が待ち合わせの場所に現れたときに――
 それをポケットから掴み出し、少女の顔面に投げつけた。
「お前の全てが欲しい!」

 少女は、一瞬にして恍惚の笑みを浮かべ、
「私の全てを貴男にあげたい!」
 と叫んだ。

     *

 ええ~(笑
 何ともハチャメチャな物語ですね。

 この少年、いったい何者だ、と――

 そもそも、ケーキをポッケに詰め込むな、と――
 グショグショになるじゃないか、と――
 気持ち悪くないのか、と――

 しかも、初めてのデートだぞ、と――
 それを彼女に投げつけるか、ふつう、と――

 彼女も彼女でヘンだろう、と――
 いきなりケーキを投げつけられて、恍惚の笑みなんか浮かべるな、と――
 しかも「一瞬にして」なんて意味わかんねえし、と――

 よって、

 ――この物語は破綻している。

 と、鼻で笑う人がいたら――
 その人には、物語を読み込む力が欠けているのです。

 逆に、

 ――とんでもないヤツらだ。どんな恋愛するんだろう!

 と、目の色を輝かせるなら――
 物語を読み込む力が備わっている――

 つまり、物語を読み込む力というのは、いかなる描写をも受け入れる柔軟性と、その描写から現実感を構築する想像力と、その現実感を持続させる集中力です。

 そういう力が備わっている人は――
 仮に「イチゴのショート・ケーキ」が「イチゴのチーズ・ケーキ」であっても、「ニワトリのフォアグラ」であっても――
 まったく動じないのです。

 ――イチゴなら、ふつうショート・ケーキだろう?

 とか、

 ――ニワトリのフォアグラなんて、きいたことねえぞ!

 とか突っ込んだりしないのですね。
 そういうものだと思って受け入れる――
 つまり、そういうものが存在する世界として柔軟に考えるか、「チーズ・ケーキ」や「ニワトリ」である理由に想像を巡らせるか――

 まあ、別に突っ込んでも構わないのですが――(笑
 それは、物語を味わう姿勢とは相容れません。

 まったく異なる楽しみ方といえましょう。

 そうした楽しみ方は、ひとたび物語を読み込んだ後で、物語とは基本的に無縁の文脈でのみ、価値をもってきます。