マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

そこから脱却するには

 昨日の『道草日記』で、マンネリズムに触れましたが――

 僕がマンネリズムのことを気にしだしたのは――
 創造者がマンネリズムに陥っているときに、そこから脱却するには、どうしたらいいのか、ということに関心を持ったからでした。

 が、この問題を考える前に、マンネリズムからの脱却が本当に必要かということを、まずは考えねばなりません。

 もちろん、その創造者が、創造を生業としており、その創造物を消費する人々がいて、それら人々が不満を覚えている場合には――
 当然、マンネリズムからの脱却は必要です。

 が、以上は、あくまで商業的見地から展開される論理です。
 二次的な結論といってもよいでしょう。

 商業的見地から離れた場合でも、マンネリズムから脱却する必要はあるのでしょうか。

 言い換えれば――
 例えば、消費者が特に不満を覚えていないような状況でも、マンネリズムから脱却する必要はあるのか――
 ということです。

 僕は、その必要はないと考えています。
 ただ一つ「創造者がマンネリズムを望んでいる」という条件を、満たしてさえいれば――

 マンネリズム自体は、決して悪いものではないはずです。
 それは、例えば、映画の名作『寅さん』を思えば明らかです。
 マンネリズムのみが到達しうる境地というものも、確かにあるらしい――

 つまり、マンネリズムの醍醐味を知らない創造者が、ただ、それを強要されているときにのみ、マンネリズムは悪なのです。

 では、マンネリズムから脱却するには、どうしたらいいでしょうか。

 答えは、2つに1つです。

  1)マンネリズムの醍醐味を探る

 か、

  2)マンネリズムの強要を拒む

 か――
 1)がマンネリズムの再評価を意味することは、すぐにおわかりでしょう。つまり、1)は真の意味ではマンネリズムからの脱却ではありません。
 2)は、現実的には、創造の終結ないし休止を意味することが、ほとんです。創造という営みは、

 ――今日から違う物を創るぞ!

 と意気込んだところで、すぐに何とかなるほど甘くはありません。

 マンネリズムがイヤなら、とりあえず創るのをやめることです。
 それが最も確実な方法――あるいは転機になる――といってよいでしょう。

 もちろん、永久にやめる必要はありません。
 ちょっと休むだけでもいい――
 その結果、永久にやめることになるかもしれませんが――