昨日の『道草日記』で、仙台の桜は昨日が散りぎわだと書きましたが――
予想外の冷え込みがあったために、まだ今日いっぱいは見頃を保っているのだとか――
たしかに、自宅近くの公園の桜は、まだ十分に満開といってよく――
そんな桜をみるのがツラいというのは、あいも変わらずですが――
満開の桜がツラいのは、
――あとは下降線をたどるだけ――
だからですが――
それが理由の全てではありません。
いえ――
もちろん、根っこにあるのは、そうした経験的な予測でしょう。
たぶん、二次的にもたらしているだけなのでしょうが――
満開の桜が――
僕には――
泣き叫んでいるようにみえるのですね。
――ほら、みて! 私、今こんなに奇麗でしょ!
と――
――もっと、よくみていってよ!
と――
たしかに、本当に奇麗にみえるから、
――そうだね、奇麗だね。
と頷き返すのだけれども――
もっと、よくみてみたところで、桜の運命は変わりません。
たぶん、桜も知っているのです――あとは下降線を辿るだけだということを――
そこが、何よりもツラいのですね。
(いっそのこと、早く散ってくれればいい)
とさえ思います。
その一方で――
来年の桜に、ほんのり期待をもってしまう――
どうしようもないですね。