大学という施設ほど、人によって捉え方の異なるものはないかもしれません。
ある人にとっては、大学は生きる糧を得るために学ぶところです。
大学で学んだことを活かすこと――あるいは大学で学んだことを認められること――で、社会において、生きる糧を得やすくなるように努めるところです。
が、そうは考えない人もいます。
――大学とは、どうにかして生きる糧を得なければならない苦しみから逃れ、そうした苦しみの只中にあっては決して学ぶことのできないことを学ぶように努めるところ。
と考える人です。
ところが――
そういう人は、最近では、ほとんどみかけなくなりました。
現在では、ほとんどの人が大学を訓練所とみなしています。
「どうにかして生きる糧を得なければならない苦しみから逃れられるところ」とみなす人は、ほとんど存在を禁じられつつある、といってもよいでしょう。
なぜでしょうか。
「どうにかして生きる糧を得なければならない苦しみから逃れられるところ」というのは、ふつうに考えれば、楽園のようなところです。
本当の楽園であれば、いざ知らず――
「楽園のようなところ」というのは、通常、出入りを許されている人々と許されていない人々とを作りだします。
地上の楽園には、地上にあるがゆえに、出入りの制限が必要なのです。
制限は特権を生み出します。
つまり、大学を「楽園のようなところ」とみなす考えは、大学は特権階級の所有物とみなす考えと隣り合わせなのです。
これは、よくない――
少なくとも、自由平等を謳う民主主義の社会においては、こうした考えは危険であるとみなされます。
よって――
今日、大学は、すべからく訓練所とみなされています。
それが良いか悪いかという議論とは無関係に――
大学は、訓練所になるしかないようなのです。
大学が訓練所ということは、大学生は訓練員であり、大学教員は訓練指導員である、ということです。
訓練指導員は、訓練員を確かな方向に導くために、日々、鍛練に励んでいます。
研究とか学問とかいう鍛練です。
大学の訓練所への特化は、民主主義の社会においては、たぶん必然なのです。