マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

言語的な美しさ、文芸的な美しさ

 昨日の『道草日記』で、言語を操る力と文芸を楽しむ力とは別物だということを述べましたが――
 言語的な美しさと文芸的な美しさとも、まったくの別物だと思っております。

「美しさ」というのは、ここでは「明快さ」くらいの意味です。

 例えば――
 最近、裁判員制度の導入で、「有罪」や「無罪」という言葉に触れられることが多くなりました。

 裁判員制度が始まれば、普通の国民が、重大な刑事事件について、被告の有罪や無罪を判断するようになる――
 というような文脈です。

 ここでいう「有罪」とは、英語の「guilty」に対応する概念ですね。
「有罪」というのは、ひらたくいえば、

 ――被告が確かに罪を犯したということを検察はきちんと立証できている。

 くらいの意味です。
 これに対し、「無罪」は、

 ――きちんとは立証できていない。

 くらいの意味です。
 英語では「not guilty」となります。

 ここで注意すべきは――
「guilty」の反対は「innocent」ではないということです。

 一般に、裁判では、英語圏に限らず、「guilty」か「not guilty」かが争われているのですね。
 決して「guilty」か「innocent」かが争われるのではありません。

 つまり、被告が実際に罪を犯している場合でも、「not guilty」と判断される可能性は十分にあるのです。

 極論すれば、

 ――法廷で裁かれているのは、被告ではなく検察である。

 とさえ、いってよいかもしれません。
 検察の立証に妥当性があるかどうかが検証されているのです。

 よって、「無罪」という日本語は、少なくとも裁判の文脈では、誤解を与えやすい言葉といえましょう。
 本来ならば、「有罪とはいえず」とか「非有罪」とかいった言葉をあてがったほうがいいのです。

 にもかかわらず――
 なぜ「無罪」という日本語が使われ続けているのかといえば――
 おそらく、

 ――有罪か無罪か。

 との対比表現に、一種の美しさがあるからでしょう。

 このような美しさが、「文芸的な美しさ」です。
 これに対し、「言語的な美しさ」というものは、

 ――有罪か非有罪か。

 といった対比表現に宿っています。
 あるいは、

 ――「有罪」か「有罪とはいえず」か。

 ですね。

 僕は、「無罪」という言葉は、裁判の文脈では、できるかぎり用いないようにしたらよいと考えています。
 裁判に文芸的な美しさは不要でしょう。

 もし、どうしても文芸的な美しさを追求したいのなら、

 ――無罰

 とか、

 ――無刑

 とかいった言葉がよいと思います。