昨日、
――脳死を人の死とみなし、臓器提供に年齢制限を設けない。
とする法案が、衆議院を通過しましたね。
臓器移植医療を推進する立場の人たちにとっては、大きな一歩前進となりました。
が――
この法案が最終的に法として成立するどうかは、参議院での今後の審議に委ねられます。
参議院で、衆議院が解散するまでに採決を終えなければ、廃案になるからです。
ことは解散がらみですから、政治的な駆け引きが活発化しそうです。
おまけに、いわゆる「ねじれ国会」であり、衆議院と参議院とで与野党の勢力が逆転しています。
このまま、すんなり法案が可決されるとは、ちょっと思えません。
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脳死と臓器移植との議論は、1990年代で最も盛んであったと思います。
もっとも、「盛んであった」のは日本だけでしょう。
他国や他の文化圏では、脳死も臓器移植も、そんなに違和感なく受け入れられているようです。
死生観の違いというよりは、身体観の違いなのだと思います。
概して、日本人は人体を臓器の集まりとする見方に、抵抗を感じるのです。
もっとも、こうした言い方には少し語弊があって――
例えば、欧米流の発想であっても、人体を単なる臓器の集まりとはみなしません。
人体が生きていくためには、個々の臓器が集まって互いに調和を保って働くことが不可欠であり――
そうした命の調和がなくなったときにこそ「人体は単なる臓器の集まりになってしまった」とみなし、実際に臓器提供を模索するわけです。
その「命の調和」をもたらす臓器こそが脳であり――
それゆえに、
――脳が死ねば人体も死ぬ。
と考えるわけです。
脳死を人の死とみなさない立場は、
――脳は人体を構成する臓器の1つにすぎず、脳が人体に「命の調和」をもたらしているわけではなく、脳に臓器としての絶対的な優位性は認められない。
という立場に通じます。
こうした立場が奇異に感じられる向きもあるかとは思いますが――
僕は、これでもいいと思っているのです。
脳死を人の死と認めても、認めなくてもいい――
どちらにせよ、その結論の土台となる身体観が大切であり、それを各人が構築し、社会で共有していくことのほうが、ずっと重要である――
そう思っております。
身体観を抜きにした脳死の議論は、どうしても場当たり的な議論に終始してしまうのですね。
今回の衆議院での議論も、そうであったように感じられます。
まあ――
解散ぶくみの政局ですから、
(仕方がないか)
とも思います。
あの「ねじれ国会」で、少なからず形而上学的な議論を闘わせるなどは――
ちょっと非現実的でしょう(苦笑