マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

真っ当な科学嫌いへ向けて

 自然科学の営みには、パズルを解く楽しみのようなゲーム性が備わっていて――
 それが、いわゆる「科学嫌い」の人たちに手っ取り早い口実を与えていることは、ほぼ疑いのない事実のように思えます。
 ちょうど、最近の複雑で高性能なTVゲームに子供が没頭しているのを苦々しく思う大人たちのように――

 もちろん、そうしたゲーム性は自然科学だけでなく、社会科学や人文科学にも備わっているのですが――
 自然科学の営みでは、実験や観察に基づく仮説の検証という手続きが中核を成しているために、そのゲーム性は頭1つ分ほど抜けています。
 ゲーム性が巧緻で高級だといってもいいし、煩雑で低級だといってもいい――

 もう少しいえば――
「科学好き」の人たちには「巧緻で高級」であり、「科学嫌い」の人たちには「煩雑で低級」なのですね。

 が――
 自然科学のゲーム性にばかり目を奪われていると――あるいは、自然科学のゲーム性にばかり悪態をついていると――自然科学がもたらす人知への実りを掴み損ねます。

 自然科学は、元来は哲学や思想の方法論として発達したのであって――
 自然科学の恩恵は哲学や思想の領域にこそ及びます。

 哲学者や思想家たちが必死に考えているだけでは絶対に到達できない高みへと――
 自然科学は押し上げてくれるのです。

「科学嫌い」の人たちは、別に「科学好き」になる必要など、ありません。
 そのまま「科学嫌い」で大いにけっこう――

 が――
 自然科学のゲーム性に少しは精通していないと、まともな「科学嫌い」――真っ当な科学嫌い――にはなれません。

 自分の部屋でTVゲームに没頭し、野山を駆ける遊びを覚えようとしてない子供に向かって、いくら「TVゲームはダメ!」と叱っても、説得力は出ないでしょう。

 まずは一緒にTVゲームで遊んでみて、そのゲーム性に少しは精通した上で、

 ――野山を駈けると、TVゲームとは少し違った面白さが味わえるよ。

 と諭してこそ、説得力が出てくるのです。