人はムダを嫌って効率を追い求めますが――
そんなことではいけないという人もいます。
――そもそも人の存在それ自体がムダなのだから、ムダを嫌ってはいけない。
というのです。
――ムダを受け止め、ムダを抱きしめようとする。そうでないと、真の意味で、人は人を大切にすることができない。
と――
人がムダな存在であるという主張には、かなり異論が多そうですが――
人をヒトとみて――つまり、生物種の1つとみて――
生命がムダな存在でないかどうかを考察すれば、おのずと結論がみえてきます。
熱力学的な発想に立てば、生命は、エネルギーの流れの中に自然と発生した結節点のようなものだといえます。
エネルギーの流れは、エネルギーの偏りによって作り出されています。
水の偏りが水の流れを作り出し、その流れの中に自然と渦が発生するようなものです。
ですから――
生命は、この世界にエネルギーの偏りが存在していたから、存在しているのです。
決して、その逆ではありません。
生命は、世界にエネルギーの偏りを存在させるために、存在しているのではない――
エネルギーの偏りが存在しているから、二次的に存在しているにすぎない――
つまり、世界にとっては、エネルギーの偏りの存在のほうが、より根源的であり、生命の存在は副次的にすぎない――
生命は、あってもなくてもいいような存在――つまり、ムダな存在――というわけです。
にもかかわらず――
ムダを嫌って効率を追い求める人は少なくないのですが――
ムダを嫌うこと自体もムダなのですよね。
どんなに嫌ったって、ムダをなくすことはゼッタイにできないのです。
ムダをなくそうと躍起になっている人こそ、ムダを愛しているのかもしれません。