荒れ果てた農地のところどころに、ひしゃげた自家用車が散乱している光景を目にしたりすると、
(まだまだなんだなあ)
と感じます。
――震災の痛手から立ち直るには、なお長大な時間を必要としそうだ。
ということです。
その印象は、理屈を越えて強烈な実感なのです。
震災後、しばしば、
――長い道のりになるかもしれないけれど、一緒に頑張っていこう。
という激励のメッセージに触れましたが――
その都度、心が引っ掛かっていました。
(「長い道のりになるかもしれないけれど」っていうけれど、どうして「長い道のりになるけれど」っていわないのか)
と思ったのです。
「長い道のりになる」と断定することで、復旧・復興に勤しむ人々の気持ちを挫くことになると考えられたのか――
たしかに、挫かれます。
が……。
「長い道のりになるかもしれないけれど」と遠回しにいわれても、気持ちが挫かれることに変わりはないでしょう。
むしろ、遠回しのほうが残酷だと思うです。
何となく無責任に感じてしまうので――
「長い道のり」になることは、被災地の現場に入れば明らかです。
人は、それを直感します。
ひょっとすると――
その「直感」は誤っているのかもしれません。
よって、厳密には「長い道のりになるかも」のほうが正確でしょう。
が――
そうであっても、その「直感」は圧倒的な実感を伴っているのです。
どうしようもなく痛感させられるのです。
「理屈を越えて強烈な」とは、そうした意味なのですね。
「長い道のりになるけれど」で、よいでしょう。
それがキツいと思うなら、あえて「長い道のり」には言及しないのがよいでしょう。