レイ・ブラッドベリさんが亡くなったそうですね。
きょうのネット・ニュースで知りました。
ブラッドベリさんは、アメリカのSF作家です。
代表作は『華氏451』や『火星年代記』など――
僕は、そのお名前を伺うと――
いつも、決まって、ほろ苦い気分に陥ります。
*
僕がブラッドベリさんのことを知ったのは、とある日本人の翻訳家によって書かれた随筆でした。
その一文は、たしかSF専門誌に掲載されたもので――
今は手元にありません。
ですから、お書きになった翻訳家の方のお名前はわかりません。
今となっては確認のしようがありません。
その一文で――
ブラッドベリさんの『火星年代記』が紹介されていたのですね。
当時、僕は10代後半(16か17)でした。
(なんて素敵なSF短編なんだ)
と思ったのです。
その後、大学受験の勉強の延長で、なぜか『火星年代記』の原文の一部を読む機会があり、
(たしかに、素敵っぽいな~)
と思いました。
が――
当時の僕の英語力では「素敵っぽい」と評するのが精いっぱいで――
とても「素敵」と断定するところまではいきませんでした。
今の英語力でも、たぶん同じでしょうね。
それはそれで、よいのです。
言語とは、そういうものです。
少なくとも僕は、そう思っています。
僕は日本語を母語とする者であり、英語を母語とする者ではありません。
しかも、翻訳業に携われるほどの英語力もない――
ですから――
ブラッドベリさんの『火星年代記』の文芸を真に深いレベルで味わうことは、決してできないのです。
その現実の端緒を初めて痛感したのが――
ブラッドベリさんの『火星年代記』でした。
ブラッドベリさんの原文に触れ、ある意味で絶望をした僕は――
時をおかずに翻訳本を買い求めます。
ところが――
それを読んで、僕は、さらに絶望をしました。
そして、確信に至ります。
翻訳文は、あきらかに原文の趣きからは遠ざかると――
繰り返します。
言語とは、そういうものです。
翻訳文では、英語が日本語に置換されてしまっているのですから――
そこでの文芸は、まったく違うものに変化してしまっているのですね。
僕は翻訳された『火星年代記』を、どうにか最後まで読み通しましたが――
その印象は、現在、まったく残っていません。
印象に残っているのは――
あの随筆なのです――ブラッドベリさんの『火星年代記』を紹介していた日本語の随筆――
日本人の翻訳家が母語で書いた随筆です。
読んでいて大変に心地よかった――
何度も繰り返し、繰り返し、読み通した――
ですから――
僕にとっての『火星年代記』は、あの随筆から読み取ったことが、すべてでした。
僕は、ブラッドベリさんの原文にも、その翻訳文にも、文芸を見出せん。
が――
あの日本人の翻訳家が書いた日本語の随筆には、文芸を見出せました。
以上のようなことを思い出すから――
僕は、ブラッドベリさんのお名前を伺うと、ほろ苦い気分に陥るのです。