マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

その淀みが醸し出す凄みを

 いわゆるラブソングは、

 ――愛を唄った歌

 だと思われていますが――
 本当は、

 ――恋を唄った歌

 であることが――
 ほとんどだと思うのですよね。

 いわゆるラブソングを聴いていて、
(いや――それ、「愛」じゃなくて「恋」だろう?)
 って思うことが――
 けっこう多いのです。

 当代のJポップの作家さんたちは――
 どういうわけか、「恋」を「愛」と言い換えることがお好きのようで――

 まあ――
 自然なことではあります。

 一般に、人は、自分の恋に気づいたら、それを愛で包もうと努力します。
 それが、いわゆる「恋愛」です。

 つまり――
「恋愛」には核があって――
 それが「恋」だというのです。

「愛」は「恋」を包んでいるのですね。

 この恋愛の本質に――
 古代・中世の歌い手たちは、よく感じ入っていたように思います。

 例えば、百人一首でも、もっぱら「愛」ではなくて「恋」を唄っていますよね。

   恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか

 とか、

   しのぶれど 色に出でにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで

 とか――

「愛すてふ」でもなければ――
「わが愛は」でもないのですね。

 もちろん、当時は、まだ「愛」という言葉はなかったはずです。
「愛」といえば「愛(かな)し」の「愛」でした。

 が、そのことを差し引いても――
 古代・中世の歌い手たちは、今日でいう「愛」の概念には、ほとんど関心を払っていなかったように思います。

 わかる気がします。

 だって、「愛」に当てはまる心の動きは、実に多様です。
 多様すぎて、かえって凄みに欠けるのですよね――「思いやり」とか「友情」とか「仁義」とかも、よく考えてみれば、愛の一種ですよ。

 このように、「愛」という概念は――
 突き詰めて考えていくと――
 やけにあっさりと雲散霧消してしまうような、儚いところがあります。

 ちなみに――

 ……

 ……

 もし、僕がラブソングの詞を書くのなら――
「愛」ではなくて「恋」を主題に据えるでしょうね。

「愛」という言葉は使わずに、あえて「恋」という言葉だけを使って愛をも表す――
 そういうことです。

「恋」という言葉は、意味が狭いのですね。
 その分、淀みがあります。

 その淀みが醸し出す凄みを描き出して――
 何とか文芸の形に仕上げようと足掻くことでしょう。