マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

人は書くことで精確に考えられるようになるけれども

 ――人は書くことで精確に考えられるようになる。

 といいますが――
 本当に、そうですね。

 僕は日本語では、よく書きますから――
 たしかに、日本語で考えるときは、精確であるように感じます――正確かどうかは別にして――(笑

 が――
 僕は英語では、最近ほとんど何も書いていないので――
 英語で考えるときは、ぜんぜん精確ではありません。

(ははは……)
 と――
 自分を嘲笑したくなるくらいに――
 精確ではない――

 が――
 もしかしたら、少しは正確であるかもしれない、と――
 思うことがあるのです。

 僕は、英語で話すことを日本語で話すことよりも、いくらか重視しています。

 日本語で話すときは、流れに身を任せ、なんとなく感性だけで話をしていますが――
 英語で話すときは、自分の意図を意識的かつ明確に設えて、なるべく理性で話をするようにしています。

 ですから――
 英語で考えているときのほうが、精確ではないけれども、正確ではあるかもしれない、と――
 思うのですね。

 ここでいう「精確」とは、「精度的に確かなこと」くらいの意味であり、「正確」とは、「正しく確かなこと」くらいの意味です。

 例えば、「精確」とは、地図上で、仙台市の輪郭を精密に描き出せるということであり、「正確」とは、地図上で、山形市盛岡市ではなく、間違いなく仙台市を指し示せるということです。

 つまり――
 仙台市の輪郭を精密に描き出せても、それを山形市盛岡市だと思って描き出していれば――
 それは、「精確」ではあっても「正確」ではない、ということになります。

 まあ――
 実際の「精確」や「正確」の辞書的な意味とは、少し違うようなのですが――
 僕は、これらの言葉の使い分けを、そんな風に理解しております。

 そして――
 書くことで研ぎ澄まされるのは、精確さであって、正確さではない――
 ということが、気になっているのですね。

 話すことを怠れば――
 正確さが失われる――

 緻密な言説を展開する割には、ぜんぜん的外れのことを主張している――
 といったことになりかねない――

 そういうことです。