――おじさんの哀愁
などと――
僕らは時々かんたんに口にしますが――
この「おじさんの哀愁」というのは――
いったい何なのでしょうね。
興味深いのは、「おじさんの哀愁」とはいっても、「おばさんの哀愁」とは、なかなかいわないことです。
少なくとも、僕は、きいたことがありませんよ。
こういう話をし始めると――
つい何とか生物学的に説明をしようとアレコレ考え始めるのが僕の癖なのですが――
(まあ、それでは、あまり面白い説明にはならないかな~)
とも思っています。
生物学的な説明というのは、どうしても後付の意味合いが濃くなりますのでね。
「おじさんの哀愁」について考えるのなら――
「哀愁」を漂わせていない「おじさん」が、どのような「おじさん」なのかを、ちょっと考えてみるのがよいでしょう。
どんな「おじさん」なら、哀愁が漂っていないのでしょうかね。
仲の良い奥さんや朗らかなお子さんたちに囲まれて暮らしている「おじさん」とか――
いつも億単位の金や万単位の人を動かしている「おじさん」とか――
そこから逆算して考えていくと――
「哀愁」の漂っている「おじさん」というのは――
自分が男であることを忘れたくはないのだけれど、つい忘れそうになっている「おじさん」――
あるいは――
自分はいつまでも男でいたいのに、それが周囲の状況によって許されていない「おじさん」――
そんなところでしょうかね。