マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

「杞憂」について

 ――杞憂

 という言葉がありますね。

 中国・周の時代――
 杞という国に住んでいた男が、
「天地が崩れたら、どうしよう?」
 と大いに悩んでいたという寓話から――
 一般に、

 ――まず起こりそうにもない災厄が起こるのではないかと心配をすること、取り越し苦労――

 という意味だと理解されています。

 出典は道家の文献『列子』の巻の一つ『天瑞』だそうです。

 この「杞憂」について――
(僕は何も知らなかった)
 ということに――
 きょう気づきました。

 いわゆる「杞憂」の寓話には続きがあるのだそうです。

「天地が崩れたら、どうしよう?」と悩んでいた男をみて、自分まで悩んでしまった男というのが登場し――
 その男が、当時の世で知られていた事実に基づき、
「大丈夫だ。天地が崩れることはない」
 と言い聞かせます。

 すると、悩んでいた男は喜色満面の笑みを浮かべ、
「そうか、大丈夫なのか」
 と納得をしたので――
 言い聞かせたほうの男も、やはり喜色満面の笑みを浮かべました。

 ところが――
 その2人の話を聞いていたという賢人が登場し、こう語ります。
「たしかに、『天地が崩れるかもしれない』と心配をするのは、度が過ぎている。が、『天地が崩れたりすることはない』と断言をすることはできない」

 以上を踏まえ――
 列子が諭すのです。

 ――天地が崩れるかどうかは、誰にもわからない。崩れないかもしれないし、崩れるかもしれない。そのことの真偽は人知を超えている。そのようなことで悩んでいても仕方がない。

 と――

 注目すべきは――
 列子は決して「天地が崩れることなどありえない」といっているわけではない――
 ということです。

 むしろ、「天地が崩れることもありうる」といっている――

 ということは――

 例えば、
「もし、2020年の東京オリンピックの開催時期に、ちょうど首都直下型の大地震が起こったらどうしよう?」
 と心配する人に対し、
「そんなの、杞憂だよ」
 と答える人がいたとしたら――
 その人は、

 ――たしかに、そういう大地震が2020年の東京オリンピックの時に起こらないとまではいえない。

 と指摘していることになります。

 もちろん――
 指摘の趣旨としては、

 ――そんなことで心配をする意味はない。

 となることに違いはありませんが――

「杞憂」という言葉――
 そう気安くは使わないほうがよいのかもしれません。