ある機関誌のコラムを読んでいたら――
巧い文章とそうでない文章との違いが指摘されていまして――
曰く、
――読み易いかどうかの違い、書き手の意図が明瞭に伝わってくるかどうかの違いである。
と――
つまり、巧い文章とは読み易く、書き手の意図が明瞭に伝わってくるが、そうでない文章は読み辛く、書き手の意図が曖昧にしか伝わってこないということです。
(それは、その通りだろう)
と思ったのですが――
そのコラムで指摘されていることで、より大切なことは――
以上の点ではなく――
――私は、大学を卒業してしばらく経つまで、何が巧い文章で、どうすれば、そんな文章が書けるのかを教わったことがない。
という点でした。
(たしかに……)
と、僕も思いました。
僕自身、巧い文章の何たるかを教わったことはなく、また巧い文章の書き方を教わったこともありません。
なぜ、これを教えないのでしょうかね。
小学校は無理でも、せめて中学校や高校で教えればよいと思うのですが――
おそらく、「巧い文章」に誤解があるのです。
――「巧い文章の何たるか」や「巧い文章の書き方」なんて教えられないよ。
という人は、
巧い文章 = 文芸的に優れた文章,読み手の心を動かす文章
という図式を抱えているのではないでしょうか。
そうではありません。
巧い文章とは、
――読み易い文章、書き手の意図が明瞭に伝わってくる文章
です。
近代の日本では――
文章を読み易くし、意図を明瞭に伝えようとするために、段落下げを行ったり、句読点を用いたりすることは、読み手を見下すことに等しいという考え方が支配的であったといいます。
これを僕は、
――日本の文芸の悪しき伝統
と考えています。
何のために文章を書くのか、いま一つ理解されていなかった時代の、
――無用の遺物
と考えています。
この遺物の呪縛は強力で――
今も、日本の文化に脈々と受け継がれているようです。
文章を読み易くし、意図を明瞭に伝えることこそが、読み手への礼にかなっているのだということを――
きちんと社会全体で確認することが必要でしょう。
そのためには――
学校教育で「巧い文章」を正面から扱うことで、「巧い文章」の誤解を払拭するのが一番でしょう。