きのうの午後に――
天気予報の通りでした。
以下のことは――
いつぞやも、この『道草日記』で書いたように記憶しておりますが――
*
本来は恐ろしいはずの嵐も、その嵐をもたらす台風の位置や勢力が、天気予報によって事細かに把握できるのなら――
そんなには恐ろしく感じられないのですね――いわゆる“嵐の不気味さ”が実感できないといいますか――
――ああ。いま台風はあの辺にいるから、あとこれくらいでこっちにくるな。
とか、
――そろそろ台風が太平洋沖に抜けるから、あすの朝は晴れてるだろうな。
などと思えれば――
まったく不気味ではありません。
嵐というものは――
いつ去っていくかがわからないからこそ不気味なのであって――
台風の予報が一般的ではなかった時代の人々にとっては、おそらく、
――いつかは去っていくとわかっていても、それでも恐ろしい。
というのが嵐ではなかったかと想像します。
いつ去っていくかが時間単位でわかっていれば、
――まあ、それまでの辛抱でしょ。
で済んでしまう――そういう災禍は、当然、そんなに不気味ではありませんよね。
とはいうものの――
……
……
台風の予報が一般的であろうとなかろうと――
台風がもたらす嵐が、人々の営みに深刻な被害を与え、時に容赦なく人命を奪っていく事実には、変わりがないわけです。
嵐が恐れられるべきなのは、21世紀の日本でだって同じです。
この矛盾は――
なかなかに深刻だと感じます。
嵐の不気味さを甦らせるために、わざわざ台風の予報を曖昧で不正確にするというのは変な話ですし――
かといって、台風の予報を精緻で正確にすれば、その分、嵐の不気味さは失われていき、人々の備えは、どんどん甘くなっていく――
台風を丸裸にした上で、かつ嵐の不気味さを保つには――
どうしたらいいのでしょうね。