ネットのサイトをぼうっと眺めていると――
なぜか、感覚が愚鈍化し、思考が膠着化していきます。
新奇の物事への関心が薄れ――
考えをまとめる気迫が弱まり、
(どうでもいいんじゃないの?)
とか、
(なるように、なるんでしょう)
とか――
……
……
なぜ、こうなってしまうのでしょう。
それとも――
これって、僕だけのことですかね。
……
……
不思議なことに――
新聞の紙面をぼうっと眺めていても――
そういうことにはなりません。
感覚が愚鈍化したり、思考が膠着化したりすることは、決してない――
……
……
なぜなのか――
……
……
いま、ふと思ったのですが……。
……
……
もしかしたら――
ネットのサイトと新聞の紙面とで、記されている情報量に違いがあるからではないでしょうか。
その違いは、ただの「違い」ではありません。
桁違いの「違い」です。
ネットのサイトでは、クリックしだいで、いくらでもページが連なっていく――
加えて――
数分おきに(もしくは数秒おきに?)どこかで新たなページが追加されていく――
ネットのサイトに記されている情報は、平面的にも時間的にも重層です。
一方――
新聞の紙面に記されている情報は、それほど膨大というわけではない……。
平面的にも時間的にも単層です。
(ネットと新聞とでは、記されている情報量が、本当に、ぜんぜん違うんだな~)
ということを――
いま、こうして『道草日記』に書いてみて、あらためて実感しております。
で――
……
……
この桁違いの「違い」が、人の感覚や思考に及ぼす影響は、計り知れない、と――
僕は考えております。
感覚も思考も、人の心の働きです。
人の心の働きは、ヒト(生物種としての人)の脳の機能であると理解されています。
そのヒトの脳は、重層で無限的な情報量に触れる時と単層で限定的な情報量に触れる時とで――
応答の仕方が変わってくると考えられます。
ヒトの脳は、無限の概念の処理が苦手です。
有限の数の神経細胞から成っていますので――
よって――
ヒトの脳は、重層で無限的な情報量に触れる時は、機能を自発的に抑制しかねない――
人がネットのサイトに記されている情報に触れるときに、感覚が愚鈍化し、思考が膠着化してしまうのは、そのせいではないか――
そのように考えております。