説明は、その説明を最も必要としているはずの人に、最も届きにくい――
という不条理があります。
例えば――
*
一般に――
言葉をなりわいにしている人は、「は」と「が」との違いに、けっこう敏感です。
――AはBだ。
と、
――AがBだ。
とでは――
まったく違った表現のように感じられる――
が――
言葉をなりわいにしているわけではない人にとっては、
――え? 「は」と「が」の違い? そんなの、ないに等しいでしょう。
と思うものです。
たしかに――
ふつうに日常生活を送る上では、「ないに等しい」といってよいのですが――
……
……
何が違うのか――
実は、けっこう違っていまして――
そもそも――
その「違い」の見立てからして、違っていたりします。
僕は、「AはBだ」の「A」は未出の概念であり、「AがBだ」の「A」は既出の概念であると考えています。
つまり、「AはBだ」の「A」は、その時点で初めて言及される概念であり、その言葉を見聞きした人は、それぞれ思い思いの「A」を思い浮かべるけれども、「AがBだ」の「A」は、それ以前に言及されている概念であり、その言葉を見聞きした人は、皆、特定の「A」を思い浮かべる――
ということです。
ところが――
人によっては、これとは正反対のことをいっていたりします。
たしかに、「A」が人の固有名詞であったりすると、たしかに、その通りに思えることもあるので――
話は、かなりややこしいのですが――
とにかく――
言葉をなりわいにしている人たちのなかでは、「AはBだ」と「AがBだ」との間に何らかの違いがあるということについては、何らかの総意が形成されていて――
このことについて、とくに改まった説明は必要ありません。
ところが――
言葉をなりわいにしているわけではない人たちのなかでは、このことは、何ら総意は形成されていません。
そういう人たちに、「AはBだ」と「AがBだ」の違いやその違いを認識することの重要性を」わかってもらうのは、なかなかに大変です。
一から全てを丁寧に説明していかないといけない――
その説明は、言葉をなりわいにしているわけではない人にとっては、はっきりいえば、どうでもよい説明でして――
最後までしっかりと聞いてくれることは、まずありません。
当然ですよね。
――どうでもよい。
と思っていることへの説明なので――
説明は、その説明を最も必要としているはずの人に、最も届きにくい――
というのは、そうしたことです。