人は、誰かのことをいくらでも矮小化できるし、いくらでも誇大化できるのですね――
その「誰か」の実際の能力や人柄のほどは別にして――
その気になりさえすれば――
人は、誰かのことを安易に、
――バカじゃないか。
と嘲弄できたり、
――素晴らしい人だ。
と絶賛できたりします。
つまり――
結局は、その人の意志なのです。
その「誰か」のことをどのように評価するのか――その意志しだいで、その「誰か」への評価は、いくらでも変わっていってしまう――
たとえ、その評価が一見、客観性や公平性に適(かな)っているように思えても――
誰かを評価するときに――
この可変性について、僕らは、できる限り、敏感になったほうがよいでしょう。
人は、よほど厳しく自分を律していかないと、客観性や公平性を容易に踏み外すのです。
誰かの能力をいくらでも過小ないし過大に評価して、誰かの人柄をいくらでも歪曲ないし誇張して評価してしまう――
その潜在的な危険性を――
僕らは、大いに恐れるのがよいでしょう。
*
今度の日曜日は、衆院の総選挙ですね。
政治家どうしの非難合戦が激しさを増しています。
対立候補を非難する演説の中には――
この「可変性」に歯止めがかけられずにいるものも、ちらほらと見受けられます。
(いくら政敵でも、そりゃないよ……)
と――
時には暗澹たる気持ちになります。
(ちょっとした心がけで、十分に歯止めはかかると思うのにな~)
と――
政治家は、この「可変性」の制御の達人であって欲しいと思います。