小説には――
作家の意識的な計算によって書き出される作品と――
作家の無意識の計算によって書き出される作品とがあるといえましょう。
つまり――
作家が、あらすじを最初から最後まで明確に決め、構成を練り上げて書き上げる場合と――
作家が、あらすじを決めずに、思いつくままに場面を継ぎ足していって書き上げる場合とがある――
ということです。
どちらも虚構を主体とする文芸作品であることに変わりはなく――
作品を完成させるのに相応の労力を必要とするという点では一緒なのですが――
それら作品が読まれるときの趣きは、かなり変わってくるでしょう。
意識的な計算によって書き出される作品は、技巧的で洗練されている一方――
いかにも作り物っぽい印象を与えます。
無意識の計算によって紡ぎ出される作品は、迫力十分の現実味が感じられる一方――
あらけずりで素朴な印象を与えます。
読者の好き嫌いは、かなりハッキリと分かれるに違いありません。
が――
それ以上に分かれるのは、作家の好き嫌いかもしれません。
意識的な計算によって書き上げるのが好きな作家と――
無意識の計算によって書き上げるのが好きな作家とがいて――
両方とも好きという作家は、たぶん少ないのですね。
たいていは――
どちらかの書き方が好きで、もう片方の書き方は嫌いなのです。
そのことは――
作家が自分の小説の書き方の流儀をエッセイなどで述べているときに、よく伝わってきます。
先日も、ある作家さんのエッセイを読んでいて、
(あ……。この人は“意識的な計算”が好きな作家さんに違いない)
と直観しました。
その方は、事前に十分に資料にあたって綿密な検討を重ねた上で書き始めるのだそうです――書き留めたメモ書きだけで机の上がいっぱいになるくらいに――
僕の直観が当たっているかどうかは、別として――
そうした点が直観できると――
その作家さんの作品を、がぜん読みたくなるから、ふしぎです。
実は――
僕は“無意識の計算”で書かれた小説のほうが好きなのですが――
“意識的な計算”で書かれた小説であっても、事前に、それとわかっていれば――
ふしぎと読みたくなるのですね。
おそらくは――
たとえ自分の嫌いな書かれ方をした小説であったとしても、どうにかして、その好き嫌いの溝を越えて読み進めようとする意欲が湧いてくる――
ということなのでしょう。