人の心の働きは、しばしば、
――理と情
というように――
何となく二元論的に対比されて――
そして――
何となく、
――「理」が強い人は能動的かつ積極的な言動を展開し、「情」が強い人は受動的かつ消極的な言動に終始する。
とかいうような印象がありますけれど――
実際には、「情」のほうが能動的かつ積極的で、「理」のほうが受動的かつ消極的ではないか、と――
僕は思っています。
試みに――
人の心の働きの要素を思いつくままに幾つか挙げますと、
――理(論理を司る)
――知(外界を知る)
――情(感情を抱く)
――創(創造を行う)
――意(意志を持つ)
といったところになるかと思います。
このうち――
もっとも自我が深く関わっているのは、「意」でしょう。
その次に深く関わっているのが、「創」――その次が、「情」――その次が、「知」――もっとも浅く関わっているのが、「理」――ではないか、と――
僕は思っています。
このことは、「理」や「知」がコンピュータで比較的容易に再現できることと符合します。
もちろん――
コンピュータの内部に自我を形成することが原理的に難しいために、「意」や「創」や「情」の再現が難しいのは、あくまでも二次的な理由なのですが――
同時に――
人の心の働きの要素のうち、自我から切り離しても割と本質的な部分が失われずに残る要素が「理」や「知」ではないかという推論が成り立つことも――
忘れてはいけないでしょう。
が、「理」と「知」とで比べたら、「知」の方が「理」よりも、いくらか自我に近いのではないでしょうか。
例えば――
外界の情報の知覚を考えるときに――
その知覚の主体である自我が異なれば、当然のことながら、知覚される外界の情報は様相が少なからず異なることが想像されます。
よって――
自我から最も遠いところにあるのは、「理」です。
論理的思考は誰が履行しても基本的には同じ結論に至りますが――
このことは、論理的思考には自我の与る余地がほとんど残されていないことを反映したものでしょう。