マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

「残念な人」は誰にとって「残念」なのか

 近年、啓発書のタイトルなどとして、

 ――残念な人

 というフレーズを――
 しばしば見聞きするようになりましたが――

 このフレーズ――
 僕は、あまり好きになれないのですよね。

 表面的な理由は――
 誰にとっての「残念」なのかが、曖昧だからです。

 当の“残念な人”にとって「残念」なのか――
 その周囲にいる人たちにとって「残念」なのか――

 それとも――
 まったくの第三者――赤の他人――にとって「残念」なのか――
 
 文脈によって、どのようにもとれるのです。

 そして――
 この表面的な理由の背後に、真の理由が隠れていて――

 それは――
 もし、当人にとっての「残念」であれば、それなりの温かみが感じられる一方――
 もし、まったくの第三者にとっての「残念」であれば――「悪意」とまではいわないまでも――ちょっと皮肉めいた意図が感じられることです。

 こうした二重規範的なニュアンスが気になってしまって――
 僕は、「残念な人」というフレーズを、積極的には使えずにいます。

 ……

 ……

 まあ――

 感じ方は、人それぞれなのでしょうけれど――