――美は乱調に宿る。
などといいますが――
皆さんは、そう思われますか。
僕は、思いません。
(「美は乱調に宿る」とみなせば、真理を見落とすことになる)
と、僕は考えています。
*
――美は乱調にあり
とは、瀬戸内寂聴さんの伝記小説のタイトルです。
大正期の婦人解放運動家・伊藤野枝を主人公としています。
この「美は乱調にあり」という言葉――なかなかに印象深いと思うのですが――
そうはいっても、
(そんなわけないだろう)
と、僕は思っています。
(乱調が美しく感じられるのは、背景に正調があるからで、もし背景も乱調ならば、それは、ただの乱雑である)
と、僕は考えています。
つまり、
――美は乱調と正調との境界にあり
と、僕は主張したいわけなのですね。
ところで――
この「美は乱調にあり」という言葉――
もともとは、大正期の思想家・大杉栄の言葉のようです。
大杉は、『生の拡充』というタイトルの小論を残していて――
その中に、
――美はただ乱調にある。諧調は偽りである。
という一節があるようなのですね。
大杉の『生の拡充』が思いがけずネットで閲覧できたので――
ちょっと読んでみたのですが――
どうやら、
――近代社会は、征服階級や被征服階級、および、これら2つの階級の中間に位置する階級によって構成されていて、この構成がもたらす社会秩序は悪しきものであるから、かき乱すことが必要である。
といった主旨のようです。
この「かき乱すこと」に、大杉は美しさを見出していて――
それゆえに、「美はただ乱調にある。諧調は偽りである」と主張しているのですね。
「諧調」とは、
――音楽の調子や絵画の色彩などの調和がとれた様子
であり、ほぼ「正調」と同義でしょう。
正調を「偽り」といってしまっては――
ちょっと穏やかではありませんね。
そのためかどうか――
この時、伊藤野枝も一緒に惨殺されています。
伊藤は、大杉の妻でした――享年28――
伊藤の伝記小説のタイトルが大杉の言葉から派生していることは――
こうした経緯と無関係ではないでしょう。
*
美は乱調に宿るのではありません。
乱調と正調との境界に宿る――
たしかに――
正調に宿る美は、偽りかもしれません。
が――
乱調に宿る美も、また偽りです。
正調と乱調との境界で、両者が互いに作用を及ぼし合って初めて――
美は顕現します。
ということには、ならないはずです。