マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

当事者意識を分散させるだけでは?

 例えば、人の生老病死に関わるような――
 ある程度、普遍的な社会問題が持ち上がると――

 様々な識者が様々な見解を述べます。

 そして、多くの場合で――
 次のような決まり文句が末尾に添えられます。

 ――これは、社会全体で考えていく問題だ。

 とか、

 ――国民一人ひとりが取り組むべき課題だ。

 とか――

 これらの言葉――
 必要なのですかね。

 僕は、ほとんど意義を見出せません。

(現代の日本社会を構成する全個人が互いに話し合いながら考えていくことなんて絶対できないし、国民一人ひとりが取り組むにせよ誰かがリーダーシップをとっていかなければ、横の連携がとれないし……)
 と思います。

 いかなる社会問題も――
 誰かが主体となって、状況や状態を分析し、解決策を考案し、その解決を図って社会全体ないしは国民一人ひとりに働きかけていくことが必要です。

(「社会全体で考えていく問題」? 「国民一人ひとりが取り組むべき課題」?)

 たしかに――
 それは、その通りです。

 が――
 本当に大切なのは、そのことではなくて――
 そのことを前提に、誰が主体となって社会全体ないし国民一人ひとりに働きかけていくのか――
 です。

 その旗振り役を自分で担うつもりがあるのなら――
 そう宣言をすればいい――

 担うつもりがないのなら――
 せめて当事者意識を分散させるような言葉は添えないようにするべきではないでしょうか。

「社会全体で考えていく問題」や「国民一人ひとりが取り組むべき課題」といった決まり文句は典型的な蛇足であって――
 誰かの心の中に芽生えているかもしれない当事者意識を――
 単に分散させるだけの言葉に聞こえます。